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万葉神事語辞典


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項目名 ゆうこう
表記 遊行
Title
Yuko
テキスト内容 ①祭儀に関わる外出。出遊・御遊ともいう。②非定住者の芸能活動③宗教活動。「あそぶ」は本来神の庭で歌舞すること。その職業集団が「遊部(あそびべ)」、個人が専門化すると「遊士(みやびお)」と呼ばれる。①は万葉集に紀の伝として、磐姫皇后が御綱葉を取るために紀の国に遊行していると、天皇はその隙に八田皇女を召し入れ、ひどく恨んだという(2-90)。たしかに紀に同じ話が載り、皇后が御綱葉を取りに行った隙に、天皇が八田皇女を召し、皇后が知って御綱葉を海に投げ入れたと伝える。御綱葉に「箇始婆」という注があり、「カシハ(柏)」である。柏は聖木、葉は天皇の祭祀に関わるもので、皇后が柏の葉を取りに行ったのは、天皇の祭儀を助けるためであろう。『礼記』では天子の祭りに皇后が菜をとるのは、天子を助けることで夫唱婦随を人々に示すのだとある。また、推古紀には聖徳皇太子が片岡山に遊行した時、道の辺に飢え人があり食べ物や衣服を与えた。後日、飢え人は亡くなっていたので墓に葬り、数日後、墓を調べさせると屍はなく衣服が棺の上に畳んで置いてあったという。これは遊行者が〈聖〉であることを示しており、乞食に身を隠した仏と遊行者とが出会い奇異を表したという仏教説話である。この話は万葉集にも載り、聖徳皇子が竹原の井に出遊した時に、龍田山の死者を見て悲しみ歌を詠んだ(3-415)。竹原の井への出遊は、聖水に関わる祭儀があったからで、この飢え人や死者は本来は神でり、その神祭のために聖が遊行したということであろう。折口の〈まれびと〉にもとづけば、飢え人はマレビトであり、聖徳皇子は神を迎え祭る者であったといえる。こうした遊行や出遊が天皇の行幸や遊猟にも用いられるのは、それらが祭儀としての性格によるからであり、遊覧もそうした性格から出発した。②は遊行女婦を指す。芸能を売る妓女である。大伴旅人が大宰府から帰京する途次の水城で、児島という遊行女婦が別れを悲しみ、涙を拭きながら袖を振って歌を詠んだと伝える(6-996)。越中では大伴家持が都の使者の田辺福麻呂を迎え遊覧した時に、遊行女婦の土師が加わり(18-4047)、また越中の史生・尾張少咋は佐夫流という遊行女婦に惑ったといい(18-4106)、越中の正月の宴には遊行女婦の蒲生が加わり(19-4232)、蒲生は宴で「亡妻挽歌」をも詠んでいる(19-4236~37)。あるいは遣新羅使が対馬で停泊すると、船に玉槻という娘子が来て宴に参加する(15-3705)。この対馬の玉槻も遊行女婦と考えられる。〈遊行女婦〉は「媱《放逸也、戯也、私逸也、宇加礼女》」(『新撰字鏡』)がもとになり「ウカレメ」と訓まれている。遊行の第一義にもとづけば、遊行女婦は神を祭るために外出する巫女であった(柳田国男「『イタカ』及び『サンカ』」)。万葉の段階に到ると芸能者としての性格を強くし、漂泊しながらその芸能を売り、特にすぐれた遊行女婦は官妓として国庁や大宰府の専属となり、また貴族の家にも出入りしていたことが知られる。韓国ではこのような女性は〈妓生〉〈慇懃〉と呼ばれ、高級な〈妓生〉階級は官妓の伝統を受け、国の公式な宴会に呼ばれ文人たちと交わったという。③は『懐風藻』の釈智蔵伝に、智蔵は経典を竹筒に入れて「負担遊行」したという。この場合の遊行は「ユギョウ」と訓む。遊行僧による宗教活動を示す。尹学準「王族と妓女の歌」『朝鮮の詩心』(講談社学術文庫)。柳田国男「『イタカ』及び『サンカ』」『全集4』。
執筆者 辰巳正明