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万葉神事語辞典


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項目名 なにわ
項目名(旧かな) なには
表記 難波
Title
Naniwa
テキスト内容 難波は、難波潟、難波菅笠、難波道、難波津、難波門、難波人、難波辺、難波堀江、難波壮士、難波の海、難波の国、難波の埼、難波の菅、難波の津、難波の御津、難波の都、難波の済、難波の小江など様々な複合語によって記紀にみえ、万葉集に詠まれる。難波は上町台地を取り巻く東西と北部に、大阪湾に流れ込む淀川、安威川、大和川で運ばれた砂によって形成された広い砂州や島々からなる。ここは大阪湾とその三河川の河口部および草香江に囲まれた地域であった。難波の宮あたりの台地の北端が難波の埼で、周辺の砂州と島の周りの水辺には葦・荻・菅・真菰など多様な水辺の草が茂り、様々な水鳥が生息した。これら総てが難波の景を形成していたとみられる。水辺に生える菅で作られたのが難波菅笠であり、作ったのが笠縫たち、その人々が住んだのが笠縫の島であったであろう。難波津は堀江沿いか御津村の西か、諸説ある。上町台地の北端を流れる仁徳天皇の開鑿によると伝えられる堀江(大川)の中程両側のラグーン(東横堀川)が難波津の中心部であったことは、仁徳記の石之日売がここに待つ天皇を無視して遡っていく話で知られる。深さからして座礁の危険性もある堀江は、瀬戸内海航路の底の浅い船の港であり、海辺の御津村の西の海の沖は、朝鮮半島や中国に行き来する外国航路の大型船の港であったのであろう。沖に大型船を泊め、艀のような小舟で荷の上げ下ろしをしたとみられる。難波津は平城京の時代になると都に近くなり、利用が進んだとみられるが、堀江を下り、大渡を渡るときには潮待ちの必要もあった。人麻呂羈旅歌(3-249)はそれを語る。河口では禊祓も行われた。押し照る難波は竹之内、暗峠を越えて難波に向かう時に目にする景であろう。難波の景は西国に向かう船の出発地として、また聖武天皇の難波の宮への行幸の地として官人によって詠まれたのである。千田稔『埋もれた港』(小学館)。中西進編井村哲夫『万葉の歌5 人と風土 大阪』(保育社)。日下雅義『古代景観の復元』(中央公論社)。
執筆者 寺川眞知夫