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万葉神事語辞典


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項目名 とうだいじ
表記 東大寺
Title
Todaiji
テキスト内容 華厳宗の総本山。万葉集には「天平感宝元年五月五日に、東大寺の占墾地使の僧平栄等を饗す。ここに守大伴宿祢家持、酒を僧に送る歌一首」(18-4085)と見える。奈良時代の天平17(745)年に、聖武天皇の発願により国民の苦しみを除き国の安寧を祈る寺として創建され、孝謙天皇の天平勝宝3(751)年に大仏殿が完成し、翌4年に盧舎那仏の開眼供養が営まれた。天平勝宝6(754)年に渡来した唐の僧である鑑真により戒壇院が設立された。東大寺創建前に全国に国分寺の創建事業が進められたが、遅々として進まず、天皇の悩むところであった。国分寺は国民の平安を祈る寺として構想されたが、その根本は阿育王の舎利塔信仰に基づくもの。聖武天皇は襲い来る毎年の天災により国民が苦しみむ姿を見て、その理由は自らの徳の薄さや罪科にあると考え、贖罪のために仏の弟子(三宝の奴)となり勝満と称した。当時、天災・異変は王の政治の過誤に対して天が譴責を加えるという考えがあり、聖武天皇は自らの政治的過誤に苦しむ。その過誤の中でも、最も信頼のおける長屋王を藤原氏の陰謀に与して自尽へと導いたことであり、それは自らの責任と考えたようである。なぜなら、長屋王事件以後の天平9(737)年に長屋王を力で排除した藤原四兄弟が次々と疫病により没し、続いて天平12(740)年には長屋王謀反を密告したという男が長屋王家に仕えていた男に斬り殺されるという事件が起きる。さらに同年に大宰少弐であった藤原広嗣が反乱を起こし九州から都に攻め上がって来るという事件が発生し、聖武天皇の東国巡行が慌ただしく始まり、以後、平城京へは戻らずに都を恭仁京へと遷し、ここで国分寺創建を発願し、今度は紫香楽宮の造営を始め、続いて大仏鋳造の詔を出すのである。この一連の事件や聖武天皇をめぐる行動を見ると、天皇は長屋王の怨霊におののいていたのではないかと思われる。おそらく長屋王は怨霊として聖武天皇に取り憑いたものと思われ、聖武天皇の苦しみの大きさが阿育王が贖罪のために仏舎利塔を建てたのと等しく国分寺塔の創建を行い、さらには大仏造営へと向かわせたのではないかと思われる。辰巳正明『悲劇の宰相 長屋王』(講談社メチエ)。
執筆者 辰巳正明