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万葉神事語辞典


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項目名 かしはら
表記 橿原
Title
Kashihara
テキスト内容 大和三山の一つ畝傍山(奈良県橿原市)の東南の麓一帯の地名。天孫降臨の子孫、カムヤマトイワレビコが東征のため日向(ひむか)を出発し、大和を平定し第1代天皇として即位した宮殿を造営した地。家持(20-4465)は「橿原の畝傍の宮」と詠み、人麻呂(1-29)は畝傍の枕詞「玉たすきを懸けるのは神祭りの行為で、畝傍の神聖をもにおわ」(『全注』)せていることから、共に畝傍山と橿原とを同等に神聖視している。この神観念は、神武紀4年の鳥見(とみ)の山(桜井市外山(とび)、橿原宮郊外)で、皇祖霊祭祀・天神祭祀のため祭壇が設けられた記述と軌を一にする。辰巳正明は、鳥見の山の祭壇を、郊祀・霊畤などの漢語使用から中国皇帝の行う専権的な祭祀に接近していると述べている。中国皇帝の図式でいうと、神武橿原宮創建は、天の命を受けた受命の始祖王の最初の仕事として神聖視されるべきものとなる。では、なぜ畝傍山の東側なのか。その理由を、和田萃(あつむ)が報告している1984(昭和59)年以降の藤原京域発掘の成果を踏まえると、次の3点に集約される。第1点は、藤原宮は、中国古代の新城の思想を反映した日本での都城の最初の京師で、藤原宮御井の歌(1-52)は陰陽五行思想で、香具山は東(日の経(たて))春、畝傍山は西(日の緯(よこ))秋、耳成山は北(背面(そとも))冬、吉野山は南(影面(かげとも))夏を表すと説明しており、大和三山で囲まれた橿原一帯は、藤原京の条坊域内であった。第2点は、681(天武10)年に開始された帝紀及び上古諸事の記定作業の時期と、新城や京師の造営事業が行われていた期間とが重なること。第3点は、畝傍山の麓には古墳が数多く存在する点である。特記すべきは、藤原宮造営時点で既に古墳の墳丘の存在を確認できる点(造営にあたり墳丘の削平跡がある場合と、削平から残った場合とがあり、残ったなかで四条ミサンザイ古墳が神武陵に有力視されている。)である。橿原創建は、天武朝で纏められたのである。尚、壬申の乱を経て第40代として即位した天武天皇の存在理念を、漢代儒学の解釈学に基づいて前王朝簒奪の歴史(近江天智朝から天武朝)を、天命思想による受命の王という中国的歴史思想を基に正当化することと捉えれば、当該語は、7世紀後半の天武朝以降8世紀にかけての万葉歌成立時代の、歴史認識を反映する歴史的語彙と認められる。和田萃「新城と大藤原京」『萬葉』196号。 辰巳正明「東アジア王制をめぐる天皇の祭祀と神道」『折口信夫 東アジア文化と日本学の成立』(笠間書院)。
執筆者 板垣徹
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橿原神宮