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万葉神事語辞典


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項目名 いせじんぐう
表記 伊勢神宮
Title
Isejingu
テキスト内容 三重県伊勢市に鎮座する社。皇祖神としての天照大御神をまつる内宮(皇大神宮)と御贄の奉仕をする女神豊受大神をまつる外宮(豊受大神宮)からなる。「伊勢大神宮」(『続日本紀』『延喜式』祝詞)、「二所大神宮」(『皇大神宮儀式帳』)などとも呼ばれた。伊勢神宮の鎮座の縁起は何代かにわたる天皇紀に記されている。まず、崇神紀6年に、本来宮中の「大殿」にあって、天皇が祭祀を執り行ってきたこの神の神威を畏れ、この神を宮中から笠縫邑に遷し、皇女豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)をその御杖代(みつえしろ)として奉仕させることとなった記事がある。次に、この神についての記述がみられるのは垂仁紀25年のことである。豊鋤入姫命が勤めていた御杖代の役を垂仁天皇の皇女倭姫命に交替させたところ、神の命によって倭姫命は良き鎮座地を求めて、この神を遷座させることとなった。笠縫邑から篠幡、さらに、近江、美濃を経て伊勢に至り、ようやく神意にかなう地へ着いたことを述べる神託がくだって、ここに祠を建て、「天照大神の始めて天より降(くだ)ります処なり」とし、伊勢神宮の起源とするのである。さて、天照大御神がこのとき下した神託は「是の神風の伊勢国は、則ち常世の浪の重浪帰(しきなみのよ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜国(うましくに)なり。是の国に居らむと欲ふ」というものである。この表現は、例えば、万葉集にみられる「神風の伊勢国」(2-162、163、13-3234)や、「伊勢の海の奥津白波」(3-306)、「伊勢の海の磯もとどろに寄する波」(4-600)といった「伊勢」に関わる常套表現と等しく、「伊勢」に関わる表現は神話表現と緊密性をもっているといえる。このことは逆に、いかに「伊勢」と言う地域が画一的に捉えられていたかということを示しているとも考えられる。これは、伊勢神宮そのものの創建にも関わってくるが、伊勢神宮にまつわって、たとえば、景行天皇の命を受けたとされるヤマトタケルの東征伝承に伊勢斎宮として伊勢神宮にあったヤマトヒメと、伊勢神宮の神宝とされる草薙剣が関わってくることの必然性や、壬申の乱に際して伊勢で祈願し、勝利をおさめた天武天皇の記述とその必然性が、大和王権と東方を結ぶ拠点としての伊勢という地域の特質を示していると考えるならば、伊勢神宮の創建もその必然性によって語られているとみなければならない。なお、外宮については、雄略天皇の御代に天照大御神の食事に奉仕するために丹波国から豊受大神を迎えたのが始まりとされる(『止由気宮儀式帳』)。こうした伊勢神宮に関わる一連の記述を歴史的事実をすることはできないが、その起源を語るものとして各御代に付託されていった神話と解される。歴史的にみると、伊勢神宮は聖武朝前後に大きな拡大整備期を迎える。そのきっかけとなったのが、『続日本紀』721(養老5)年9月11日条に、聖武天皇(任命当時は皇太子)の娘である井上女王が「斎内親王(いつきのひめみこ)」に任命されたことである。井上女王の群行は、727(神亀4)年9月3日のことであるが、8月23日条には「斎宮寮」の増員記事がみられるのである。こうした斎王制度に関わる刷新とともに、伊勢神宮に関わっては、式年遷宮の開始を天平19年に定める森田悌の説もある。式年遷宮については、従来『太神宮諸雑事記』天武天皇条をもとに天武天皇のころにはじまったとされてきた。ところが、この記事を再検討した結果、同じ『太神宮諸雑事記』の持統天皇条の「即位四年(庚寅)、太神宮遷宮」の記事から690(持統4)年のこととしたのが田中卓である。これに対し、下出積与は『皇太神宮儀式帳』を論拠として785(延暦4)年説を出している。いずれとも決しがたいが、「別宮」にまで遷宮の制度が拡大されたのが天平19年の記事と見るならば、聖武朝前後を一つの画期とみる見方ができよう。このことから、荊木美行は仏教色の強い時代と捉えられがちな聖武朝において、一方で、神祇行政にも目を向けるべきとの指摘をなしている。田中卓「伊勢神宮の創祀と発展」『田中卓著作集』4(国書刊行会)。森田悌『日本古代の政治と宗教』(雄山閣)。下出積与「伊勢神宮式年遷宮紀元の問題」『古代学』4-2。
執筆者 城﨑陽子