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国学関連人物データベース

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タイトル 本居宣長
ヨミガナ / NAME / 性別 モトオリ ノリナガ / MOTOORI NORINAGA / 男
小見出し 医家、紀州藩に仕
別称 〔姓〕小津・平
[母姓]村田氏国1
〔称〕富之助・弥四郎・健蔵・春庵・舜庵・中衛
〔名〕栄貞
[幼名]小津富之助国1
[法名]英笑・伝誉英笑道興
〔号〕真良・華丹・華風・芝蘭・石上散人・鈴屋,華丹軒・石上・藪医隙成
[法号]高岳院石上道啓居士
〔諡〕秋津彦美豆桜根大人国1
生年月日 享保15年<1730>5月7日国1
没年月日 享和元年<1801>9月 29日国1
享年 72歳国1
生国・住国 伊勢飯高郡松坂本町・紀伊和歌山国1
生国・住国(現在地名) 三重県・和歌山県
生国 伊勢飯高郡松坂本町国1
住国 紀伊和歌山国1
墓地名 伊勢松坂山室山国1
学統 森河章尹・有賀長因・賀茂真淵,堀景山・武川幸順法眼国1
典拠 国伝1,国書人名辞典,和学者総覧.10505
解説 ■履歴 
木綿問屋・小津定利と妻・於勝の間に松坂に生れる※1。延享元年、元服。寛延元年(1748)11月、山田の紙商今井田氏の養子となるが、同3年12月に離縁※2。宝暦元年(1751)2月、義兄定治が江戸で病死し、家督を相続※3。母の勧めにより、商家を継ぐことを諦めて医者を志し、翌年3月、遊学のために上京※1。宝暦7年(1757)帰郷し、医を開業※3。その傍ら、古事記の研究に邁進し、寛政2年(1790)9月、『古事記伝』第一帙(5冊)を刊行し、妙法院宮を通して光格天皇に献上した。寛政4年12月に紀州藩主徳川治宝に召抱えられ、5人扶持となる※4。同6年10月には和歌山に赴き、11月に最初の御前講義を行なう※5。寛政6年(1794)、十人扶持、御針医格に進み、奥医師に列する※6・※7。 享和元年(1801)3月に上京し、芝山持豊、富小路貞直、日野資枝などと謁見、進講した※8。家督は養子大平が継ぎ、和歌山に移り住んで紀州侯に仕えた※9

■学問動向
寛保元年(1741)、岸江之仲について漢籍を学ぶ※3。寛延2年(1751)3月に宗安寺法幢和尚から和歌の添削を受け、和歌を志す※10。 宝暦2年(1752)上京し、堀景山に就いて漢学を学ぶ。景山の塾で『百人一首改観抄』や『餘材抄』、『勢語臆断』など、契沖の一連の著作に触れ、その歌学・学問に影響を受ける※11。同年、冷泉為村門森河章尹の門人となり和歌を学ぶ。なお、同6年から9年3月頃まで、有賀長川(長因)にも和歌の指導を受けている※12。宝暦3年(1753)7月堀元厚に、翌4年5月に武川幸順に入門して医学を修めた※13。 宝暦7年に帰郷し、医を開業する傍ら、嶺松院歌会に入会する。宝暦8年夏、自宅において『源氏物語』を講じ以後、記紀や『万葉集』、『古今和歌集』など、古典の講釈を始める。※14これら歌論や『源氏物語』の講義を通じ、文学の真髄を「もののあはれを知るこころ」に求めるようになる。(⇒特記1)また、この年の10月、賀茂真淵の『冠辞考』を読み、深い感銘を受ける※15。同13年(1763)5月25日、真淵との対面を果たし、『古事記』の注釈を行うことを激励される※15。同年(1763)12月に入門※16。以後、書面を通じて『万葉集』についての質疑応答がなされた。翌明和元年から『古事記』の校合を行い、古事記研究の準備にかかり、明和4年(1767)に『古事記伝』を起稿、寛政10年(1798)6月13日、全44巻が完成した※17。そのなかで、漢意(からごころ)を廃し、神道を理解することを述べ、独自の神学を主張した(⇒特記2)。また、語学的分野においても活用研究や漢字音研究などを飛躍的に発展させている(⇒特記3)。門人は、天明8年(1788)まで146人であったが、『古事記伝』の刊行とともに、全国規模で広がり、享和元年(1801)までに488人を数える。宣長は後世の国学者によって、古学・国学の祖と位置づけられ、「三哲」、「四大人」の一人として崇敬された※18

〔注〕
※1家のむかし物語(宣長全集20, 国伝1) ※2日記「宝暦二年之記」(宣長全集16) ※3鈴屋翁略年譜(宣長全集別3, 国伝1) ※4本居宣長稿本全集1輯(884頁の註(4)) ※5日記「寛政六年若山行表向諸事扣」(宣長全集16) ※6日記「寛政六年同十一年若山行日記」(宣長全集16) ※7鈴屋翁略年譜補正(本居全集首巻) ※8日記「享和元年上京日記」(宣長全集16) ※9藤垣内翁畧年譜(本居全集首巻) ※10今井田日記  ※11玉勝間(巻2)「おのが物まなびの有しよう」。なお、『鈴屋翁略年譜』では、契沖に影響を受けたのは宝暦6年のことで、このときに古学を志したとしている ※12本居宣長稿本全集1(64~65頁)。 ※13在京日記 ※14日記「日録」(宣長全集16) ※15『玉勝間』二の巻 ※16「日記壹 宝暦13年癸未日記」(宣長全集16) ※17書簡番号606,622,625,626,628等(宣長全集17) ※18「三哲」は『三哲小伝』、「三大人」は『三十六家小伝 下』。「四大人」は『学統弁論』(春満・真淵・宣長に平田篤胤を加えたもの)に記載がある。
特記事項 <特記1>歌文学と「もののあはれ」

宣長の歌文学研究の確立過程を辿ると、京都遊学時代の師、徂徠学に理解を示す朱子学者堀景山は、勧善懲悪的な文芸観を退け、徂徠派的な詩文尊重の学風を持していたことに遡る。それは、当時の宣長の文学観に何らかの影響を与えたと思われる。堀景山を通じて契沖の著述に親炙した宣長は、歌学における革新的な見解に目覚めていった。『百人一首改観抄』『古今余材抄』『勢語臆断』などの古典注釈や、『和字正濫鈔』等の仮名遣い研究は、宣長に、文献学的な成果を認識せしめた。契沖の教えのもと、旧派歌学の伝授思想に対し批判を加えた。しかし一方において、二条派歌学の有賀長伯を慕っていた宣長は、善美を尽くした和歌の詠出を理想としていた。歌道の師を定家、歌道の至極を『新古今集』とした。宝暦年間に歌論書『排蘆小船』を著し、和歌とは、政事や道徳とは本質を異にすること、とりわけ善悪教誡とは無関係で、ただ心に思うことを歌い出すものであり、そこに固有の意義があると説いている。続いて宝暦13年(1763)に『紫文要領』を物し、『源氏物語』の主題をめぐって考察。当該物語論をして、「もののあわれを知る」説を中心に展開した。また同年の作と目される『石上私淑言』は、『排蘆小船』の改稿を意図したものであり、文芸本質論の「もののあわれ」説を唱えて、歌文学の世界に一石を投じている。「もののあはれを知る」説とは、喜怒哀楽といった素直な心の在り様であり、人が事物に接した際に、その情趣的本質を認識することによりその事物に感動し、さらにはその感情を意識において顕在化させるという人の心理的なメカニズムを明らかにした論であると指摘されている。宣長は、かかる「もののあはれを知る」説に於いて、儒教や仏教が道徳を説くのは、人情の真実を抑圧し、偽善を強制するものであるとして、これを厳しく批判した。この主張は、『源氏物語』や古代歌謡が、反道徳的な恋を好んで取り上げていることから、文学の本来の目的は、道徳を教えることではなく、「物のあはれを知る」心を養うことにあるとして、歌文学の本質論へと展開する。それは、人間をひたすら情緒の側面からのみとらえるという欠点を孕みながらも、歌文学を中世以来の道徳的文学観から解放し、文学の自立性を主張する画期的なものであった。
【参考文献】
・城福勇『人物叢書 本居宣長』吉川弘文館
・『本居宣長事典』東京堂出版

<特記2>神観念

宣長の業績は、畢生の大著『古事記伝』として知られるが、すでに医学修行の為の京都遊学時代以前から、「神書といふすじの物」に通暁していた宣長は、京都遊学時代に谷川士清の『日本書紀通証』を書写している。これが後の古事記研究に影響を与えたのかは定かではないが、記紀とりわけ『古事記』を中心として、神道をとらえようとする宣長の立場の萌芽ともいえよう。しかし宣長が古事記研究を志す決定的な契機は、宝暦13年(1763)に賀茂真淵に面会したことであろう。明和元年(1764)に、真淵に正式に入門した宣長は、真淵より万葉の教えを受け、其の事を通じて、大和言葉の分析を深めた。また同年より『古事記』の校訂作業を開始。明和四年(1767)に『古事記伝』を起稿し、以後32年の歳月を経て、寛政10年(1799)に同書全44巻44冊を脱稿した。ちなみに、その間、「第1類の下書初稿本」、「第2類の浄写整理稿本」、「第3類の増補訂正稿本」といった三系統の下書きが物された。とりわけ「第2類の浄写整理稿本」は、内宮禰宜の蓬莱尚賢や中川経雅によって書写され、それぞれ自己の見解を附して宣長に送り返されている。とりわけ当該稿本の段階では、「迦微の定義」や、『古事記』の神つ巻の伝承推移を吉凶の相あざないとして捉えた「吉凶交代史観」等、宣長の学説のいくつかは、未だ精錬された状態にはなかった。凡そ、宣長の神理解、及び広義の神道論は、『古事記伝』に漏れることなく、そのすべてが内包されていると考えてよい。神理解において、今日の神学的立場から評価されるのは、「記伝三之巻」に示された有名な「「迦微の定義」であろう。即ち、海山川等の自然物、神社に奉斎された御霊、あるいは古典に記述された神々等、広く神の範疇を明確にした上で、「尋常ならずすぐれたる徳(威徳(イキホヒ)―筆者注)のありて、可畏き物」と規定した。つまり、人間の生活や生命に類稀な働きをもたらし、宗教的な畏怖を呼び覚ます当の存在に霊性をみているのである。神道の神の特質を明確に捉えている点に於いて、今後、これ以上の定義は現れないであろうと云われている。次に、造化三神中、高御産巣日神・神産巣日神の神徳を重視している事であろう。所謂「産巣日神」は、天地開闢以前に存在した既存神であり、この神の産霊の働きによって、天地を始めあらゆる物が生成し、あらゆる神々は産巣日神の御子神であると規定した。更に、黄泉国の汚穢を物実として顕現した八十禍津日神・大禍津日神を悪神と位置づけ、この世に生起する凶悪(マガゴト)の一切は、悪神「禍津日神」の御所為(ミシワザ)であると主張した。今日の神道神学的立場から見て、両産巣日神の職能を生成に見出し、そして禍津日神は凶悪をもたらす神と規定することに異論はないが、宣長の神理解に於ける議論を追及すると、皇祖神天照大御神も悪神「禍津日神」も、共に「産巣日神」の系統を受けた神ということになろう。それ故、宣長は、天照大御神の荒魂は禍津日神なり、との学説を主張している(『古事記伝』六之巻)。ちなみにこうした宣長の神理解は、宣長と同時代あるいは後の国学者に、必ずしも全面的に受容されたわけではない。例えば、上述の如き天照大御神の荒魂と禍津日神との同一神説は、天照大御神の荒魂を奉斎する荒祭宮の故実に通暁していた中川経雅、菌田守良そして御巫清直といった神宮学者によって、厳しく批判された。また上田秋成とは、天照大御神が太陽そのものであるのか、否か、といった「日の神」論争を交えた。また宣長の古道論の後継者と自認していた平田篤胤は、禍津日神をめぐって、伊邪那岐命の穢を悪み給ふ御霊に基づいて顕現した神である故に、穢があれば怒り荒び坐して、凶悪をもたらすが、穢が清まれば、著しい功を為す神であると禍津日神善神論を主張した。あるいは天保期の国学者橘守部は、神と人との本質的な相違を必ずしも明確にしなかった宣長の学説を批判して、『難古事記伝』全五巻を天保期に著した。なお、宣長の古道論については、『古事記伝』中の一部をなす『直毘霊』をはじめとして『玉くしげ』『神代正語』等、いくつかの著述が物された。
【参考文献】
・城福勇『人物叢書 本居宣長』吉川弘文館
・岡田米夫「古事記伝稿本の基礎的研究」『皇学』昭和8年・9年
・中野裕三『国学者の神信仰―神道神学に基づく考察―』弘文堂

<特記3>語学研究

古語の実証的な研究が宣長の学問を支えていたことは、古語の正確な読解が古語に関する正確な知識を前提とする、との考え方に拠るものであって、それは京都遊学時代に親しんだ契沖の著述に示唆を受けてのものであろう。主要な業績は、係り結びの現象全体を整理し、一定の法則性を始めて明らかにした『てにをは紐鏡』(明和8年ー1771刊)、漢文の助字とは異なる日本語の「てにをは」の独自性を究明した『詞の玉緒』(天明5年ー1785刊)、更に、漢字音をどのような仮名で書き分けるべきかを論じた『字音仮字用格』(安永5年ー1776刊)等である。また『古事記伝』等の注釈書には、古語の意味・用法について詳細な見解が示されている。
【参考文献】
・城福勇『人物叢書 本居宣長』吉川弘文館
・『本居宣長事典』東京堂出版
史資料 <姓名と学問>
元文五年閏七月に、父ぬし身退られぬ。大人十一歳の時なり。此年に字を弥四郎と改めらる。十二歳の時に、名を栄貞(サダナガ)とつけ給ひ、十七歳の頃より、尋常風の歌をよみ始め給へり。(此頃までに、大人の習ひ給へる事ども、八歳の時、西村某を師として、手習ひを始め給ひ、十二歳の時に、斎藤松菊に従ひて手習ひし、岸江之仲につきて四書を読み、また猿楽の謡曲をならひ、十五歳の十一月に元服し給ひ、延享三年、十七歳の頃より、歌をよみ始め、其年の七月より、浜田瑞雪を師として、射術を学び、また某に茶道の式をとひ、既に正住院に就て、五経を読畢たまへりとぞ。…かくて宝暦二年、二十三歳の三月、京に上りて、堀景山に従ひて、儒学をし、武川幸順法眼の弟子となりて、医術をまなび給ふ。其は母刀自の心おきてなりとぞ。・・・さて此の時宝暦二年より小津(ヲヅ)といふ姓をやめて、昔の本居(モトヲリ)に復し給ひ、同三年九月に、弥四郎を健蔵と改めて、春庵と号し、名を宣長と改め給ふ。(春を、また舜とも書きたまへり)中略またの年寛政七年の二月に、字を中衛と改め給ふ。

平田篤胤『玉襷 九』(国)


<松阪の一夜と入門>
同年(※宝暦13年)の五月廿五日、(略年譜及玉襷九の巻に、十一年とあるは誤なり。其は彼の日記十三年五月の條に、廿五日曇天嶺松院ノ会なり、岡部衛士当所上屋一宿始対面ス同年十二月の條に、廿八日朝曇雨天、去五月江戸岡部衛士賀茂県主真淵当所一宿之節対面其後状通入門今日有許諾之返事とあり。又加茂ノ翁家集の中に、富士の嶺を観てしるせる詞とある末に、宝の暦十まり三とせの春春郷春海等と大和へまかる時に、此みねを見さけながらにしてしるすとあり。彼これ合せ見て、其十三年なるおとをしるべし。…明和元年甲申三十五歳の正月岡部翁の許に、更に名簿(ナヅキ)及誓書を進りて、教子となり給ひぬ。 (川口常文『本居宣長大人伝』)

<迦微の説>
迦微と申す名義は、未思得ず。さて凡そ迦微とは、古御典等に見えたる、天地の諸の神だちを始めて、其を祀れる社に坐御霊をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ、海山など、其余何にまれ、尋常ならず、すぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云なり。抑迦微は、如此く種々にて、貴きもあり、賎きもあり、強きもあり、弱きもあり、善きもあり、悪きもありて、心も行も、其さまざまに随ひて、とりどりにしあれば、大かた一むきに定めては、論ひがたき物になむありける。 (本居宣長『古事記伝 三』)

<著述>

〔歴史及神道に関する書〕
古事記伝, 直日霊, 葛花, 神代正語, 伊勢二宮さき竹の弁, 天祖都城弁々, 神代紀髻華山蔭, 鉗狂人, 駁戒慨言, 出雲国造神寿後釈, 万葉集玉乃小琴, 石上私淑言, 万葉集会評録, 歴朝詔詞解, 玉の小櫛, 土佐日記抄, 手枕 
〔言語音韻に関する書〕
てにをは紐鏡, 言葉の玉緒, 御国詞活用抄, 玉あられ, 呵刈葮, 漢字三音考, 字音仮字用格, 地名字音転用例 
〔日記紀行等に関する書〕
菅笠日記, 名古屋日記, 鈴屋大人都日記, うひ山路, 玉勝間附目録, 玉くしげ, 秘本玉匣, 臣道, 答問録, 標註水草の上の物語, おもひ草, 国号考, 真歴考, 真歴不審考弁, 源氏物語年紀考, 疑斎弁
〔歌詞系譜等に関する書〕
玉鉾百首, 本末歌, 枕の山, 渚の玉, 四条宿廼会乃歌, 玉の奈都伎, 手向草, 落葉集, 鈴屋集, 鈴屋翁詩文, 本居系図、附家の昔物語
井上頼圀「本居宣長著書解題」(『國學院雑誌 七』)
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